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2025.03.14 UP

1000年後を思って彫る。宮本我休の“仏師”という生き方

article_42_img01.webp好きなことで生きていけたら。そんな思いを抱えながらも、好きなものをどうやって仕事にすればいいのかわからなかったり、不安から足を踏み出せなかったり、自信が持てなかったり——自分の生きる道を見つけられずにいる人は少なくないかもしれません。

仏像を彫る“仏師”として生きる宮本我休さんもかつて、進むべき道を見失い、生き方を模索した苦しい時期があったといいます。我休さんは“仏師”という職業とどのように出会い、生きる道を見い出してきたのでしょうか?弱点も“強み”に変えて、令和の時代に仏像を彫り続ける我休さんの生き方には、現代を生き抜くヒントがありました。

Text_Interview_Hajime Oishi
Photograph_Tatsuya Hirota
Edit_Shoichi Yamamoto

服づくりを学んだ5年間、でもどこか肌に合わなかった

“細かい作業を繰り返す気持ちよさ。
子どもながらに職人気質を自覚した。”

自らが彫った仏像を寺社や個人に納め、何百年も前に彫られた仏像を修復する——。仏師として多くの依頼を受け、幅広く活動する宮本我休さんの原点は幼少時代にありました。

「保育園児のころはやんちゃで、外で悪さばかりしているような子どもでした。一方でものづくりが好きで、チラシの裏に色鉛筆で延々と絵を描いていましたね。細かい作業をひたすら繰り返すことが気持ちよくて、子どもながらに自分の特性をぼんやりと感じていました」

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中学生になるとファッションに関心を持つように。雑誌のファッションスナップで取り上げられたこともあったそうで、「ファッションの世界に憧れを抱くようになって、中学の卒業文集には『将来はファッションデザイナーになりたい』と書いていました」といいます。

高校卒業後は短期大学のファッション科に進学。東京の専門学校にも通い、計5年間服づくりを学びました。それと同時に、ファッションに対して違和感を抱き始めたと話します。

「服って基本的に人が着てナンボというところがあるんですよね。創作意欲が湧き出てくるのに、表現に制限がかかってしまう。舞台衣装であっても舞台に合わせてつくらないといけないわけで、ファッションデザインの世界が窮屈に感じるようになってきました。専門学校に進学してからは服づくりよりもアート寄りのファッション・イラストレーションを描くようになり、雑誌の挿絵のお仕事をいただいたりもしていました」

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我休さんが学生時代に作成したファッション・イラストレーション(左)と仏像彫刻の下絵(右)。学生時代の経験が仏師としての活動に活きていることが垣間見える

一度は見切りをつけた服づくりが、仏師の道への導きに

“すべての歯車がカチンと噛み合う音がするくらい、
この世界だ!と感じた。”

専門学校卒業後は、地元の京都に戻って点描画のような絵を描き始めます。ひとりのアーティストとして世に認められたい。誰かに必要とされたい——。京都の小さなアパートでひたすら絵を描いていたこのころが、我休さんにとって一番苦しい時期だったといいます。

「アルバイトをしながらコンペに出してみたり、機会をうかがっていました。ただ、学校の授業料や生活費を援助してくれていた親に対する申し訳なさもあったし、将来の不安もあって、精神的に厳しい時期でした」

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不安を振り払うようにひたすら絵を描き続ける我休さんに転機が訪れます。3つ年上の兄に仏師の家系の友人がいて、仏像の衣に彩色できる人を探していると紹介されました。ファッションの心得があり、絵筆をとっていた我休さんに声がかかったとのこと。

仏師の世界との出会いは我休さんに大きな衝撃を与えました。

「服の流行は毎年変わるので、つくったものが翌年には淘汰されて新しい流行が生まれる。どこか虚しさがあったし、ファッションに対する気持ちが冷めた理由のひとつもそこにありました。でも、仏像彫刻の世界は100年後、1000年後のことを考えてものづくりしている。その時間軸、スケールの大きさにガーンとやられてしまったんです」

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我休さんは現在、およそ1000年前に制作された聖観音立像の修復も手がけている

「仏像彫刻って同じ姿勢でひたすら同じ作業を繰り返すんです。気力と胆力の勝負で、自分自身の職人気質とはまりました。あと、仏さんってほとんどが服を着ているんです。服づくりの経験から布の質感やドレープ(ひだ)が体に染みついていて、自分にしかできない布表現ができるんじゃないかと。すべての歯車がカチンと噛み合う音がするくらい、『この世界だ!』と、ここに来るためにいろんなものがあったんだと感じた瞬間でした」

我休さんは当時25歳。こうして仏師になるための修行生活に入ることになります。

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自分の仕事が世の中のため、人のためになってほしい

“何を残したか、誰を救ったか、日本のために何ができたのか。
そのほうが圧倒的にスケールが大きいし、難しい。”

ファッションの世界から仏師の道へ。キャリアチェンジにあたって不安や葛藤はなかったのでしょうか。

「なくはなかったんですけど、人に求められること、興味あることが仕事につながることの喜びのほうが大きかったんです。この世界に飛び込むまでは誰にも認められず、6畳1間のボロアパートで現実逃避しながらひたすら絵を描き続けていたので」

修行時代は朝9時から夜中の12時まで師匠の仕事をし、3、4時間寝たあと、早朝の限られた時間を使って自分の作品をつくるという日々。我休さんは当時のことを「今考えればかなり壮絶な日々でしたけど、無我夢中だった」と回想します。

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仏師としての修行に入っておよそ半年が経ったころ、我休さんが初めて彫った仏像

修行期間中、ごく限られた時間で自分の仏像を彫り続けた我休さんは、次第に「朝から晩まで自分の作品をつくることができたら、どれだけ幸せか」と思うようになります。2015年、意を決して師匠に独立を申し入れ、自身の仏像彫刻工房を設立。9年間の修業期間を終え、念願の独立を果たしました。

厳しい修行を経て、仏師の道を見つける以前に抱えていた“世の中に認められたい”“何者かでありたい”という思いは変化していったといいます。

「“自分のため”という気持ちが少しずつ薄れてきて、自分の仕事が世の中のため人のためになってほしいと思うようになりました。お金や名声を追い求めても、その喜びって一過性のもので虚しいと思うようになって。

それよりも何を残したか、誰を救ったか、日本のために何ができたのか。そのほうが圧倒的にスケールが大きいし、難しい。僕の仕事は日本の歴史をつないでいくことができるし、1000年あるいはその先の風景を作ることもできる。そんな恵まれた立場にいるんだと感じています」

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時代によって求められる仏像は変わるのだそう。「戦乱や飢饉、災害の多かった平安時代末期には、柔和で癒し系の仏さんが求められた。令和の今も、皆さん心がすり減っている時代だからこそ、柔和でかわいらしい仏さんが求められている」と我休さんは語る

1000年後を見据え、信じた道を突き進む

“令和の時代に受け入れられながら、1000年後にも愛される像をつくること。
——それが最大の夢。”

独立にあたって自ら名付けた仏師名の「我休」。その由来についてこう話します。

「師匠からはずっと『君の弱点は我が強いことだ』と言われていました。仏像彫刻というのは何百年という時間をかけて培われてきたもので、歴史に敬意を払いながらやっていかないといけない。作り手の“我”が邪魔をするんです。名前を呼ばれるたびに自分を戒められるようにと、『我を休す』という言葉をつくって『我休』と名乗るようになりました」

独立して10年、仏師として活動を続ける中で、「一周回って、今はむしろ自分を表現しないといけないと思うようになった」といいます。

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我休さんの代名詞のひとつである韋駄天像。現代風の格好よさを追求し、SNSで大きな話題を呼んだ

そのきっかけとなったのが、鎌倉時代を代表する仏師、快慶の最高傑作とされる醍醐寺三宝院(京都市伏見区)の弥勒菩薩坐像を間近で見たことでした。

「仏像は左右対象のものが良しとされるんですけど、快慶の弥勒菩薩坐像は結構歪んでいた。顔や目が相当歪んでいるように見えたんです。でも、少し離れて見ると、その歪みが消し飛ぶぐらい超越的なオーラをまとっていて、説明ができないくらい超絶的な造形がそこにあった。

ただし、それは鎌倉時代の当時にしかつくれない造形なんです。快慶も鎌倉時代の人々に認められつつ、1000年後も認められる形を模索したわけで、僕もこの令和の時代に受け入れられながら、1000年後も受け入れられる像を自分なりに表現していくしかないと思うようになりました。

そうやって1000年後にも愛される“至高の仏”を彫ることができたらと思っています。答え合わせは数百年後、生きている間には達成したのかわからない世界ですが、生涯でたった一体でもそういう仏像を彫れたら——。それが僕の最大の夢なんです」

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作業デスクの正面には、醍醐寺三宝院の弥勒菩薩坐像などの資料写真が貼られている

自分の“生きる道”を見つけるには

“社会が求める役割を探し出すこと。
そのためにはとにかく行動しないといけない。”

仏師という職業に出会えたことを「運が良かっただけ」と話す我休さんですが、運を引き寄せられたのは「人を巻き込むことができたからかもしれない」と振り返ります。

「これだと思ったら、ひたすら集中してがむしゃらになってやってきました。今思うと、がむしゃらにやることで道ができてくるし、周りも変わるし自分も変わる。その熱量に周りが引き寄せられて、運のようなものをつかみ取れたのかもしれません」

とはいえ、これだと思うものを見つけるのは容易ではありません。我休さんは「とにかく、これがいいかなと思うものを見つけたら、飛び込んでみてほしい」といいます。さらに「もちろん、好きなことの中には嫌いな仕事もあって、自分にも億劫な仕事があるけど、それも含めて好きになるしかない」と笑い、こう続けます。

「まず、“好き”を見つけるには行動するしかない。断られるかもしれない、と逃げていては次の世界が広がっていきません。自分の居場所を見つけるには、とにかく足で稼ぐしかないところもあるから、最初の入り口でつまずくのはもったいない。

断られることや否定されることを避けたり、怖がるのはSNSの弊害もあると思うんです。内輪で“いいね”をし合う世界では拒否されることはないけど、否定されることへの耐性が弱くなっちゃっている気がします。自分の芯をもって、断られたら『こいつ、俺のことわかってないな。もったいないな』くらいに思う図太さが必要だと思います」

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多くの支持を集める韋駄天像にも「現代風にするのは違う」と反対意見があったという。「反対意見も当然あるけど、自分が是としたことはやるしかないと心に決めた」と明かす

そんな我休さんが大切にしているのが、医師・医学者である養老孟司さんの“穴ぼこ”のお話です。

「社会が求める役割に自分をアジャストすることも大事だと思います。養老孟司さんが言うには、みんなまっさらの大地に山を立てたがる。山を立てて一旗あげるのはハードルが高くて誰にでもできるわけじゃないから、地面にあいてる“穴ぼこ”を探せ、と。“穴ぼこ”は世間のニーズで、それを埋めることが仕事になる。“穴ぼこ”に入ったほうが効率がいいし、求められるし、いいんだと。僕の場合も、仏師という世界で求められる造形、役割があって、そこに僕がたまたまアジャストしたということだと思っています」

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我休さんが「この刃でしか彫れない」と語る彫刻刀は、兵庫県・三木市の職人の手によるもの。現在70代半ばの職人には後継者がいないため、向こう30年分の彫刻刀を注文したという

仏像彫刻という社会が求める役割に、我休さんの“職人気質”、そして服づくりを5年間学んだ経験がぴったりとはまったように、自分の経験や性質をどのように世の中のニーズに合わせることができるのか。自分の生きる道を見つけるヒントは、こういったところにあるのかもしれません。

最後に我休さんは、自分を内観することについて話してくれました。

「僕は座禅を毎日やっていて、内観をルーティン化しています。自分を見つめる時間です。人から否定されるという感覚も、他人ばかりを見ているから感じるもので、自分にフォーカスしていれば気にならなくなります。自分に対する感度を高めて、自分が心地いい居場所、やり方を見つけて集中する。これが大切だと思います」

我休さんは現在、とある寺院に納める三十三観音を制作しています。これから年に数体ずつ納め、最後の一体を納めるのは60歳のとき。1000年後も誰かを癒す“至高の仏”をめざし、我休さんは今日も信じた道を歩みつづけています。

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PROFILE

(所属組織、役職名等は記事掲載当時のものです)

宮本我休

仏師/宮本工藝 代表

1981年生まれ、高校卒業後、短大・専門学校で5年間服飾を学ぶ。卒業後、京都の仏像彫刻工房にて仏像の彩色を手掛けたことをきっかけに仏像彫刻の世界に入る。9年間の修行を経て2015年4月独立。京都・西山に「宮本工藝」を設立し、主に仏像・仏具の彫刻、修復を行う。独自の衣文表現を追求し、古来の仏像を研究しながら今の時代でしか生み出せない仏像を彫像出来るようにと日々制作に励む。

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